教育学部教員コラム vol.15
2009.03.19 こども発達学科 帆苅 猛
最近、身近な石像・石仏に関心を持っています。
これは私がだんだん年をとってきたせいかもわかりません。
石像の中には、現代になってから造られたものもありますし、
それはそれなりに意味があると思いますが、やはり、
造られてからある一定の年代を経てきたものにより興味をそそられます。
↑州崎の榎地蔵
大学周辺でもお地蔵さん(とくに六地蔵)を中心に
さまざまな石像・石仏を見かけます。
それらが造られた時代はさまざまのようですが、
造った人たちがある思いや願いを込めて造像し、
ある特定の場所に安置したことは間違いありません。
その石に託された思いや祈願が「石の叫び」となって、
私たちのもとへメッセージを伝えようとしているのかもわかりません。
あるいはむしろ、切なる思いや祈願を込めて石像を造ることによって、
人々はみずからの魂が浄化されることを願ったのかもわかりません。
摩耗し、苔むした石像は、
長い年月を経て魂が浄化していったことの証なのかもわかりません。
これら石像・石仏を造った人たちの思いもさることながら、
これが現代でも手厚くまつられていることにも興味をそそられます。
もちろん、歴史的な記念碑として重要だ、ということもあると思います。
ただそればかりではなく、粗末に扱うことに対する畏怖感も垣間見られます。
すなわち、それらの石像や石仏には造像者の思い・魂が込められ、
そこに何か特別な力が働いている、あるいは、
石そのものに神聖な力が宿るのだ、といった思いです。
このような素朴な信仰は、
私たちの身近な生活の中で今も生きているのではないかと思います。
ゼミでもときおり、学生たちと鎌倉や近隣のお寺などに出かけ、
石像や仏像などを見学しながら、
そこに込められた人々の思いに耳を傾けることを試みています。
↑和田山入り口の「傍示堂の石塔群」
帆苅 猛(人間発達学科)