教育学部教員コラム vol.23
2009.12.03 こども発達学科 帆苅 猛
今年の早春、四国の巡礼地と言われるところを歩いてきました。
ほんの数日間の短い旅でした。
周りの景色も楽しみながら、いくつかの寺を回りました。
多くの人たちが巡っていました。
おそらく、それぞれいろいろな思いを抱えて歩いていたのではないかと思います。
苦しみを乗り越えるために、
あるいは、悲しみを癒すために、
あるいはまた、古い自分と決別して、新しい自分を見いだすために。
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<四国札所第44番大宝寺の案内石碑> | <大宝寺参道脇の地蔵菩薩> |
巡礼や旅に出かけるということは、ひとつは、今いるところから離れて、少し距離を取って自分を眺める、ということではないかと思います。
冷静になって自分を見つめることで新たに見えてくるものも多いと思います。
また、自分をもう一度リセットするようなかたちで新たな旅立ちを目指すことも可能かも分かりません。
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<四国札所第51番石手寺の供養のための地蔵群> | <四国札所第48番西林寺の門前の白玉地蔵> |
歩いている中で、出会うこと、発見することもたくさんあります。
さまざまな人たちと出会い、心を通わし、時には、慰められ、励まされます。
あるいは時には、自分が慰め、励ます立場にもなります。
自然とのふれ合いもあります。時には美しく、神々しい装いを示すが、時には荒々しい、厳しい姿を現します。
自分のさまざまな姿にも出会います。
自分の心の中のさまざまな思いが吹き出します。
歩いている中で、自分の肉体が悲鳴を上げ、自分が肉体を備えた存在であることを否応なしに自覚させます。
巡礼や旅に出かけるということは、そこに何か大切なものがある、その何かを求めて出かけるのではないかと思います
聖書・キリスト教で信仰の祖といわれるアブラハムも、神に導かれて荒れ野に旅立ったといわれています。アブラハムは、そこに、人生において最も大切な何かが秘められていると考えたからに違いありません。
帆苅 猛(人間発達学科)